元気で明るいAちゃん。
いつも笑顔で優しいAちゃん。
たまに疲れてる時もあるけれど、
まさか、ここまで悩んでいるとは知らず。。。
『父が痴ほう症になって、
ここ数年、ずっと面倒看てきたけど、
もう無理!
毎日何かしらあるの。
何もない日なんてない。
嘘ばっかりつくし、
怒鳴るし、侮辱してくるし、
わけのわからないことばかり言うし、
人のことを苛立たせる、勘にさわるようなことを
わざととしか思えない表情で言うし。
嫌味なんか言う時、
ほんとに意地の悪い顔をして言うの。
(傷つけてやろう、嫌がらせてやろう)
って顔にしか見えない。
もう嫌になって注意をすると、
声を荒げて言い返してくる。
それに対して、こっちも大声出すと、
今度は、『うわぁぁぁぁぁl!!!』って
叫び出すの。
それに、
『お前は俺の言うことを聞いていればいいんだよ!
俺の命令を聞け!!!』とか言うし。
痴ほう症になる前は、
穏やかで優しい人だったから、
痴呆症がそうさせてるんだと思うようにしてるけど
でも、もう限界だよ。
もう無理。
認知症の人って、人間じゃないよ。
まともな人間がやられるよ。
こっちは、嫌なことを言った後、罪悪感持つし、
悪いと思って謝るけど、
相手はけろっとしてるの。
嫌なことを言ったことを覚えてないし、
怒鳴ったことも何も覚えてないの。
もうやってられない。
最近、死にたくて仕方がない。
死ぬことしか考えれない。
もう無理。。。。。』
という友人の話を聞きながら、
クズ太郎との死闘を思い出した。
話を聞いていると、
(クズ太郎も痴呆症だったんじゃないのか?)
と思うくらい、症状が同じ。
クズ太郎は痴ほう症ではないと思うけど、
ただ、脳に疾患はあるのではないかと疑っていた。
脳に疾患のある人間の相手はホントに疲れる。
侮辱発言、怒鳴る、我が侭、嘘をつく、
妄想虚言がひどい。
あれを『人間』とみなしてよいのか。。。
介護施設や病院にいる老人を見ていていつも思う。
(私はこうなる前に死にたい)って。
他人に面倒を看てもらって、
面倒を看てくれている人を奴隷扱いして、
感謝の気持ちも持たず、
感謝の気持ちも言えず、
偉そうにふんぞり返り
侮辱する、怒鳴る、嘘をつく、
そして、糞尿の匂いをまき散らす。
偉そうにしているくせに下手すると
トイレに自分で行けず、
大人のおむつを人に変えてもらうという醜態をさらす。
やだな。。。
あの老人のように自分がなると思うと嫌だ。
そして、自分が誰かを
『もう無理。死にたい』と思わせるなんて無理。
そういえば、クズ太郎に何度も言ったことがあった。
『もう無理。
クズ太郎と関わるのホントに無理。
クズ太郎といると死にたくなる。
クズ太郎といるとホントに気分が悪くなる。
良いことなんて何もない。
関わるのやめてほしいのにやめてくれないし。
だから、クズ太郎を見ただけで死にたくなる」
と言ったことが何度もあった。
その度に、
『あなただけだよ!そんなこと言うの!
俺のすることは全ての人を良くしてきた』
とクズ太郎は怒鳴る。
『死にたい死にたいって言っていると
人に嫌われるんだよ』と言っていた。
だーかーらー。
死にたいのはクズ太郎のせい。
皆、クズ太郎のことが嫌になり
会社を辞めてるんだよ。
人に嫌われるのはどうでもいいとしても、
『この人がいると死にたくなる』、
『この人がいると会社辞めたい』と思われるくらいになったら
それこそ、自分が死んだ方が良いだろうと思う。
人にそんな嫌な思いをさせてまで生きている意味ってなんだ???
これまでも、痴ほう症になった人を人間とみなし
生かす意味とはなんだ???
等と考えていたけれど、
明るく前向きな友人のひどい姿を見て、
改めて考えてしまう。
痴呆症になった人の人権も大切ではあるけれど、
健康で未来ある人間の人権は???
もう人間として機能しない人間とみなすのも難しい人のために、
未来ある人間を潰してよいのか????
痴呆症の人間の面倒を看ることが
どれだけ大変なのか、
全ての人が理解できるように
体験介護という制度を設けた方が良いのではないのか?
認知症の人間の介護は、
想像をはるかに超える。
クズ太郎の相手するだけでも〇〇を持ったけど、
痴呆症の人間の面倒を看ている人が
『頼む。早く死んで』と思う気持ちが分かる。
(人でなし)とかではなく、
普通に思うようになる。
(あぁ、お腹すいたな)、
(あぁ、眠いな)と同じくらい
(この人が死ねば楽になるのに)と思うようになる。
※文中に登場するクズ太郎は
『元カレ』ではありません。
ただのキチガイストーカー妄想虚言変出者です。